昭和41年04月05日 夜の御理解



 (途中末尾切れ)
 ただ今、御祈念にかからして頂く前でした。田主丸の田代さんがお参りして見えて、うちに留守番が無いからと言うて、御祈念を頂かずに帰られたんですけれども、今朝お夢を頂いた、というお届けをされております。それにどうも、ご本部にお参りをしておるようでございました。それが、自分は高い所におって、そこから高架線上の方に走っておる車に乗ると、下の方を見ると、もう次から次と、電車が右往左往しておる。まぁ行ったり来たりしておる。
 それにはいっぱいの、すし詰めのご信者さんと思われる方達が乗っておられる。そして次の場面が、もうそこは椛目のお広前。それが、もう実に瀟洒見事なお広前である。広いお広前。そこを、通り抜けると、親先生の控えがある。その控えにやらして頂いたところが、丁度親先生がそのお部屋を出られてから、こちらから行ったら、向こうの方の降り口の方へ降りて行かれるところ。
 後ろ姿だけを後ろから見て、あら親先生は、向こうの方に行きよんなさる、と思うて、お部屋の入り口まで行ったところが、熊谷さんが、そのお部屋の入り口に座っておられた。こうかしこまっておられた。見るとその着物が、あらあれは娘さんの着物ばもらって着とんなさるとじゃろうか、と言う様な、その派手な着物を着ておられる。けれども何とはなしに、傍には寄りつかれないという、その威厳が。私の信心が、最近は、こんなに低下しておる。本当にもう、熊谷さんの、傍にすら寄れんごとなっとる。
 私が来たら、もう親先生は、タイミング良くではなくタイミング悪う、向こうの方へ降りていかれる。本当に、最近の信心が低下しておるからだ、と思うたところで目が覚めた、とこう言われる。私が思うのですけれども、確かに私はこれは思うんですね。椛目でご信心を頂いて少し信心の稽古をした人ならば、確かにもう今までとは違ったですかね。言うなら、次元の違った人生観と言う様なものが、それぞれに出来とられると。
 物の見方、考え方と言った様なものがですね、全然違った考え方が出来る所まで、信心をよく高めておられる。やはり、高度な信心を頂いておられる、ということだと思うんです。高架線に、椛目の信者さん方が乗っておる。そこに、椛目の信者が待っておると、こういうのは、そうだと私は思うんです。したところへまぁ大変言葉が悪いですけれども。これは、私が考えますのに、例えばほんなら、いろいろな教会の、最近の信心共励会なんかに出らして頂いて思うんです。
 けれども確かに、こうほんとに次元の違った感じがします。金光様のご信心は頂いとるけれども、やはり当たり前の、信心の有る者も無い者も同じ考え方の信心。お願いして奇跡的なおかげを頂いたら、これは有り難いという、おかげ話の発表だけであってですね、その難儀と思われるその中にです、ね、その難儀と見ておるということが、既にこれは信心の有るもんも無いもんも同じことなんです。椛目で信心さして頂く方ならば、それが分かり過ぎる位分かっとる。
 これは、難儀でないということ、これは神愛の現れであるという事を、分かっておる。けども、そういうふうに高度な信心を、いわば教育されておる。教えられておってもですね、それが自分のものになって、それが生き生きとしてです、ね、自分達の生活の上に、御用の上に、現れておらなければ、値打ちは無いということです。成程この、お夢の中に現れておられる、その、熊谷さんあたりがですね、それこそ娘さんが、着られるような若々しさを、確かに持っておられるということ。
 もう敬親会ですけど年寄りの、七十歳以上の方の会には、入っておられるけれども、やはり、他の方達とは群を貫いて、その若々しさを持っておられる。むしろ若い婦人会、もう、たまには、竹葉会の方達とでも、話が合うと言った様な感じ。本当に十五年間、それこそ朝の修行がです、それこそ朝のご祈念に、参って見える前にお水の一つも頂いてから吉井から十五年間も、続いておるという方ですから、成程信心の内容たるや、若々しい、生き生きとしておる。
 いつも修行を、この敢然とした若者のような、信心で受けぬいておられると、いうところ、いわゆる田代さんが、それに師してです。あらもう熊谷さんにですら、そばに寄られんごと自分は信心が、低下しておるという、そこ。うん。そこにこの元ずかして頂かなきゃならん、気付かして頂かなきゃならんということをです。まぁその、お夢の中に教えられておるような気が致します。
 お互いの信心もいうならば、高度な所を分かってもおれば、教えられてもおるんだけれども、果してそれに生き生きとしたものが、あるや否やという事です。本当に、あのおかげを頂いておらなければできんですね。心が生き生きと、やはり弾んだものがなからなければなりません。まぁそれもほんのご祈念の寸前でしたけれど、次々とお参りがあっておった矢次さんのご主人が参ってきておった。私そりゃもう言わん主義ですから、申しませんけれども、もし椛目にです。
 そこに例えば、なら久保山先生やら若先生のぞむさんというふうに、皆んな一緒におるのでございますからです、本当におかげを頂きよるならですね、矢次さん、まいっときおっときなさい。今日は壮年部会じゃ、ちょうど良かった。おかげ頂いていきなさい、ね。いいえ今日はちょいと急がしけん、と例えば言われてもです、あぁそうの、それは惜しかったのと言うぐらいなことは言えると思うですね。どうでしょうか最近熱心に参って来よる、深町さんがほぼ同じ時間に参ってきた。
 末永さんなんかはもうとにかく、大変な熱心なあるお伺い誤との為に、昨日も参ってきたがお伺いしきらずに又今日参ってきた。来年学院に入りたいというのであった。そういう例えば生き生きしたものを わざわざ福岡辺から北野辺から御祈念前に参ってきておるのであるから、もう御記念頂いておきなさいよと、もう御祈念の時間ですよととても言わずにはおられんのが、お広前で奉仕をしておる、人達の事ではなかろうかと思うけれども。それがです、生き生きしたものがなかったら言うごとないです。
 言う気力がないです。ほんとな事を、というてそれを商売に出してどうと言う様な事はいけんのですから。問題はより信心の若々しさを欠いておると言う事です。お広前全体が。ちょっと前ば通ったけんで、ついでお参りしたというのではないでしょうが。どれもこれも、いやわざわざお参りをして来ておるのでございますから、それこそ良い信心の相談相手にです、私は新しいいわば、生き生きとした信心をしておる。
 人達の信心の相手になってあれる位な信心の、いわば相談相手になってあげれるくらいの、生き生きとした信心というものがです、例えば望むさんなんかの場合、修行さしてもらっておる。しかも近所の友達でのぞむさんを頼って参ってくるような青年ですから、兄さんが友達、御祈念どんまいってこんのといえれる、自分自身がです、御祈念なら御祈念を頂いてありがたくなからなければそれは言えません。はぁご祈念お時間、又御祈念せんならん、自分がそのくらいでは言えません。
 事実言わせて頂いておる事が有難い。とてもこの時間に参ってきて、御祈念ば外して帰るもんがあるもんか、さあ御祈念ば頂いて帰りなさい、と例えばそう言う様なです、そう言う様な雰囲気が、自分の心に在ることが、私は生き生きとした信心ではなかろうかと思うです。言わんならんとじゃないです。お互いの信心が確かに椛目では、ある意味で高度な信心を教えられているとこう思う。又ある意味では、そうしたその二次元の人生観というものを、銘銘のものになっておると思う。
 けれどもそれに、生き生きとしたところの色彩というものを欠いたら値打ちはないということ。その辺のところをです私はです、おかげを頂いていかなければいけんぞというお知らせが、田代さんがお知らせ頂いておられるそのお夢の中に表れているように思うのでございます。これは田代さんだけに求められたのではなかろう。お互い全体の上に、私共初めです、私自身がです、お広前にそういう生き生きした雰囲気が、若々しい雰囲気がです、欠けてです、行き寄る様な事では怖い事だというふうに思います。
 どんなに高度な信心を頂いておっても、それが実際の上にお役に立たなかったら何もなりません。人に与える何物もありません。だから自分自身ももちろん助かっておりません、それでは。有難いことをして、人にでも一口でも言わにゃおれないようなものを、自分の心の中に生き生きと感じておれれる信心、そういう日々であり、
(ここで音声が終わり)